【無料Web小説】 おばさんはね、昔コガネムシだったの

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「おばさんはね、昔コガネムシだったの。
雌よ。動物の糞は食べたことはないけれど、でもクヌギの樹液を吸ってたりした。とても甘くてね、おいしかった。毎日楽しかったわ。飛んで、樹液を舐めて、アジサイの葉を食べて、飛んで。

気がついたら人間に産まれていたの。おばさんはね、子供の時に自分は昔、コガネムシだったってことを思い出したんだけど、それを父と母に言ったらとても怒られたの。だからもう誰にも言わないと決めたのよ。主人はもうとっくに喉頭癌で亡くなったけど一生そのことは知らなかったわ。とても後悔してる。気が触れたと離縁されてもいいから言っとけばよかった。私は昔、コガネムシでした。おばさんは昔の人だから恋愛結婚なんかではなかったけど、それだけが心苦しかった。
でも今でも時々思うのよ。おばさんはもうこの先長くないけど、次に産まれてくるときはコガネムシがいい。大きなクヌギの木の下で生きたいわ」

 

佐々木さんがまたいつもと同じ話を始めたので、美香子は「はい、はい」と頷いて聞いているふりをした。もう何度も何度もこの話を聞かされている。言い回しは違えども内容はいつも同じだった。惚けるということは本当に悲しいことだと思う。
それでもこのグループホームで佐々木さんは優等生だ。徘徊も異食もないし、奇声を放つこともない。自分のことや家族のことは忘れてしまってはいるが、息子さんがお孫さんを連れて日曜日にはやってくる。佐々木さんは息子さんを見ても誰なのかもわかっていないが、ずっとニコニコとしている。「わざわざこんなところにまでお越し頂きまして」と他人行儀に礼を伝えられた息子さんは複雑な表情をしている。佐々木さんは何故か息子さんにはコガネムシの話はしない。

 

美香子がこのグループホームで働き始めて、佐々木さんは最初に担当した入居者の一人だった。初めてこの話を佐々木さんに披露されたときは本当に不気味だった。初めての仕事で緊張と不安に押しつぶされそうだった美香子は面食らった。教育係の梢に報告すると「いつもその話をするの。佐々木さん、本当に昔はコガネムシだったのかもね」と笑った。もう何遍もこの話を聞かされたので美香子も今となっては何も思わない。もしかしたら本当に佐々木さんはコガネムシだったのかもしれないが知る由もない。
試しに「来世はコガネムシになれるといいですね」と返事をしたことがあったが、佐々木さんは「そうですねえ。あなたもコガネムシになれるといいわね。そしたら一緒に飛べるじゃない」と言った。「コガネムシになるのは勘弁だなあ」と美香子は思ったけど、何も言わずに微笑んだ。

 

美香子は偏差値の高くない高校を卒業して埼玉の実家から池袋の調理師専門学校に通ったが、結局調理師という仕事には興味を持つことができなかった。料理は好きだったので調理師免許も取得できたが、要領が悪く、全てにおいて手際が悪かった。才能の無さを自覚し、専門学校卒業後も実家を出ずに在学中にしていた近所のコンビニバイトを続けた。手取りは18万程度だったが、出費はケータイと年金と健康保険くらいしかなかったから生活は楽だった。3つ上の兄が大学進学と同時に家を出てから両親は更に美香子に甘くなった。美香子は気が向くままに料理だけをした。そんな時に両親はとても喜んだ。「美香子は親孝行者だなあ」と両輪が笑うたびにそのうち彼氏ができて結婚するんだ、となんとなく考えていた。長続きこそしないものの、彼氏は簡単に作ることができた。友達の先輩とかクラブで知り合った男とか。ただ、どんな男と付き合ってもやがて倦怠期が訪れ、すべてが面倒になった美香子は無責任に投げ出してしまうのだ。

 

埼玉は都心に比べると田舎だったが、中古のワンボックスを買ってしまうと生活は色々と便利になった。週に5日、コンビニでレジと陳列をこなす。煙草の銘柄はぜんぶ覚えた。彼氏がいるときはそっちに夢中になるが、彼氏と別れて暇になると中学時代の同級生を誘ってカラオケやスーパー銭湯に行った。土日のどちらかが休めたので池袋に買い物に行くこともあった。セールの時期は池袋パルコの地下で安いギャル服を漁り、渋谷のクラブで踊る。クラブでは出会いもあった。そんな生活が楽しかった。

 

美香子が24歳になり、同級生の久美子が結婚して初めて「このままではいけない」と焦った。コンビニのバイトを辞め、ハローワークでホームヘルパー2級を取得し、求人誌で今のグループホームを見つけた。美香子に介護の仕事が勤まるか不安だったがルーチンワークだったので大きな失敗をすることもなかった。ただ、給料は良くなかったし、力仕事も多い。性格のきつい先輩もいる。入居者の下の処理は今でも慣れないし、痴呆で暴言を吐く老婆もいる。「こんなに風になってまで長生きしたくないな」と思いながら働いている。

グループホームで働いているとどうしても入居者の死は避けられない。入居者は高齢で緩やかに死に向かって生きている。ただ、自分が病気だということを忘れてしまう入居者もいる。薬の飲み忘れなどには気を付けなければいけないが、病気の恐怖から解放されているのはとても幸せだなあと美香子は思う。佐々木さんのように家族が足繁く面会に来る入居者は特に幸せだと見ていて思う。入居以来、誰も面会にこない老人も少なくはない。

 

田中さんというおばあちゃんがいた。
とても品の良い人で惚けてもおしろいを塗り、唇に紅を刺し、香水をつけていた。入居者やスタッフ全員に敬語を使うので「ご婦人」というあだ名で皆から愛されていた。
佐々木さんとも仲が良く、コガネムシの話をされても嫌な顔一つせずに「そうねえ、あたしも来世はコガネムシになりたいわねえ」と同調していた。田中さんは嬉しそうに「一緒にお空を飛びましょうね」と言って笑った。

 

ただ、田中さんは時々惚けていた。自分が誰かもわからなくなり、怖くなって泣く。誰もいないのに1人で会話をすることもある。そして正気に戻ると落ち込む。老人性の鬱も併発しているということで抗うつ剤が処方されていた。
毎週ではないが、週末に田中さんの娘さんが来て、町に連れ出すことがあった。惚けはあるものの、足腰はしっかりしていたのでいつも以上におめかしをしてタクシーに気丈に乗り込んでいた。そして「今日は銀座に連れて行ってもらったのよ。地下鉄が増えてから街もすっかり変わったわね」などと皆に報告していた。グループホームで痴呆老人の現実を嫌と言うほど見ていた美香子だったが、いいなあ、こんな老後を送りたいな、と思わされた。

 

食事中に田中さんの歯が抜けてしまったことがあった。歯科検診を行ったところ、歯周病の進行が判明し、残りの歯も抜いた方が良いということになった。家族の同意を得て抜歯は行われた。田中さんにも確認を取ってはいたが、実際に歯がなくなるのはショックだったようでシワシワにすぼんだ口元を鏡で見ながら田中さんは涙していた。肩に手をかけて慰めると「年取ると辛いことが色々あるのね」と泣きながら笑っていた。「歯が無くなっても美人だから大丈夫ですよ」と言うと「ありがとう、優しいのね」と言われた。お世辞ではなく、本心ですよと美香子は伝えたかったが、うまく言葉にできなかった。

その夜、田中さんは自殺してしまった。美香子は早番だったので居合わせなかったが、深夜にラウンドアップという除草剤を大量に飲み、致死量には至らなかったものの、嘔吐剤が入っていたために吐瀉物で窒息してしまったという。でもそれでよかったと他のスタッフが言った。昔の人は除草剤や農薬で死のうとするけれども、今の除草剤は成分が弱いからすぐには死ねない。内臓がボロボロになって20時間以上も苦しんだあげくに亡くなる人もいるという。確かにそうかもしれないと美香子も同意した。ラウンドアップは越谷の娘さんの自宅に遊びに行った際にコメリに寄り、そこで購入したという。田中さんは他にも日焼け止めや入居生活に必要な雑貨を買い込んでいたため、ラウンドアップを購入したことを娘さんは気が付かなかったらしい。

入居者もスタッフも田中さんの死を大いに嘆き悲しんだが、歯が無くなった田中さんの死を選ぶほどの悲しみをわかる人は誰もわかる人はいなかった。歯が無くなった悲しみはそれほどのことなのか、それとも鬱が加速したのか、今でも美香子はわからない。

 

「田中さんはコガネムシに生まれ変わります。だからとても幸せなんです。」と佐々木さんが急に言い出だしたのでスタッフは皆ギョッとした。ここまでくると何だか宗教みたいだ。コガネムシ真理教。見かねた梢が「田中さんはお休みになったんですよ。今は静かに眠っています。」と言い聞かせた。佐々木さんはそうねと同意したが、もの言いたげな表情だった。

美香子はまだ勤めて3年だがこれまで4人の入居者の死を見送った。美香子はどんなに親しい入居者が亡くなろうと涙は流さない。悲しくないこともないが、いつか人間が死ぬことはわかりきったことだ。いちいち付き合っていたらこっちが消耗する。生きている間に快適な暮らしを送ってもらうことだけを考えて仕事をしている。

 

ある夜、美香子は夢を見た。見ず知らずの森林の中でコガネムシが羽を羽ばたかせて飛んでいた。そしてクヌギの木に止まり、一生懸命に樹液を舐めていた。「あ、田中さんだ」と夢の中で美香子はなんとなく思った。そしてコガネムシはまた遠くへ飛んで行った。「行かないで」と声をかけたがコガネムシは戻ってはこなかった。


美香子はその喪失感で目を覚ました。寂しいけれど、良い夢だったなあと思った。そして「コガネムシに生まれ変わるのも悪くはないなあ」と思うのであった。

 

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